内地と比べ北海道の歴史は浅く伝統と呼ばれるものも少ないところですが、それでも開拓時代からの人々の営みがありました。十勝の語られざる歴史 もしくは 埋もれてしまった歴史を紹介していきます。資料など不確かなところもありますが、主観を交えて新たな視点で掘り起こして紹介をしていきます。順次、テーマに沿って追加していきますので、お楽しみに。
十勝国と石狩国の境目に石狩峠がある。その一合目付近に新内バッタ塚がひっそりとたたずんでいる。これは明治12年(1879)、開拓前夜に大発生したトノサマバッタによる蝗害の記憶だ。
蝗害 明治14年(1881)から17年(1884)の間にバッタが大発生し、遠く石狩胆振方面まで被害が及ぶ大事件だった。記録と推測によると、現在の池田町利別太付近が発端、次々と拡大し、芽室 音更帯広 幕別 池田と十勝川中流域全体に広がった。利別太は足寄方面から流れる利別川と十勝川の合流域であり、広い氾濫原と蛇行した地域だ。そして、この流域で1875年(明治8)に起こった大洪水が、約4年後のバッタの大発生へとつながったということらしい。さらに、1879年の大雪による鹿の大量死が草地の温存につながり、蝗害の引き金を引いた。
この一連のことを年代別に整理すると。
1875年 大洪水 利別川十勝川
1876年 大雨
1879年 大雪 鹿の大量死 バッタの大発生
1880年 バッタ 日高山脈を越える
1883年 干ばつ 蝗害再激化
1870年代後半の一連の生態系の擾乱の中で発生したものだった。
そして、多くの郷土史では、1881年明治14年の開拓使による蝗害の発生源の調査により、 十勝には広野があることが報告され内外に知らしめた。ということになっている。
以上が十勝の蝗害のあらましである。
この報告の中で、妙で重要なのは、 蝗害が起こった時に既に、十勝には広大な森林でなく草地が広がっていたことだ。十勝では鹿の角 川などを得るために古くから人が入っていた。落角を得るために森林に火を放し樹木を焼き払い広野とした。このやり方は1879年ころから問題となり、1882年ころまで四季を通じて野焼き火入れがあちこちで行われていた。落角の採取は多数の猟師 商人 アイヌにより、かなり大規模におこなわれていた。
森林地帯に火を放ち焼き払われた跡地で、シカの角を採取し、その地はやがて草原となり
そこに柏が生えて十勝の風景を作った。
中流域の草原は、自然に成立したものではなく長期にわたる火入れと野火により、人為的に草原となったものだった。このころ、十勝の各地では同時多発的にバッタの大発生が各所であった。このような中、池田利別付近で大発生したバッタは、十勝に点在する。島のような草原を足掛かりに巨大化し十勝川流域から石狩胆振まで移動していった。やがて開拓にやって来た人々はこの風景を見て、十勝の可能性を信じた。それは未開の荒野ではなく極度に人の手が入った荒野である。
当時 エゾ鹿は商品化されており、工芸品 漢方 などのため 角 皮 肉などが商人に買い付けられ、大津 茂寄(広尾)などから函館を経て横浜へと送られていた。すでに商品物流ルートができきあがっていたのだ。これは単なる一地方の話ではなく函館横浜を介して、当時の東アジアのネットワークの話として見えてくる。その東アジアの息吹が、現地では原野に火を放ち広野に代え、やがて来る農業開拓期を準備したのだった。
そして、この野火の記憶が帯広の都市計画に斜めの火防線を作り、周辺の野火から市街地を守る計画となった。
話を最初に戻そう。1882年 バッタが群れとなり雷雲の如く空を舞っていた時、帯広でその空を一人見上げていた男がいる。鈴木銃太郎だ。晩成社の先発隊として十勝にやって来た。
別稿 晩成社の再評価と功罪 そして 余白のある未来 につづく
「キリマンジャロは19710フィートの高さの雪をいただいた山で、アフリカで最も高い山といわれている。その西の峰はマサイ族の言葉で『神の家(ンガジェ・ンガイ)』と呼ばれている。その西の峰の近くに、乾ききって凍りついた一頭のヒョウの死骸がある。そのヒョウが、なぜそんな高いところまで登ったのか、だれも知らない。」
白雲岳の山頂付近 標高2100mにある、縄文遺跡。ここは縄文後期約3000年前の遺跡てす。彼らは、ここに何をしにやって来たのか 獲物を負ってやって来たと考えがちですが、彼らの効率を考えたら、ここにいる獲物はせいぜい熊、クマは夏山に登るといいますが、シカなどはいない。さらに取った獲物の運搬などを考慮すると生活拠点の周辺ということになります。このように考えると獲物を追ってやって来た説はどうも弱い。では、交易のルート説、ここからは。現在の東川町を経て上川 トムラウシ温泉を経て十勝 さらに層雲峡を経て網走北見へ行ける場所にあります。同時にその地域からもここへやってくることができる。白滝遺跡の黒曜石を携えてやって来ることは当然想像できます。確かに交易の拠点としては良いが、どうして平地の川に沿って移動しなかったという基本的な疑問が残ります。では、山岳信仰的な祭祀場としてはどうだったのでしょうか。残念ながらストーンサークルのようなものは現在、見つかっておりません。しかし、この地点を現在のPCのシュミレーションで解析してみると、なかなか面白い地点です。地形からは周辺の山々と比べ、南に面している。平地であることが分かります。人が行ける季節を考慮して春分秋分点を探り、秋分の日の、日の出と日の入りを計算すると、この地点は東の小泉岳からの日の出 西の白雲岳の日の入りまで、一日太陽を追っていける地点です。昼と夜が拮抗するその時、秋の真っ赤に染まった紅葉の季節、オホーツク 旭川 十勝から集まった縄文人が、ここで出会い交易と信仰を確かめたと想像すると、古代の人々の息遣いが伝わった来ます。
白雲岳と小泉岳
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